昭和41年12月22日 朝の御理解
人間の真実の助かりということを目指して、お互い信心をさせて・・・・・。真実の助かりと言うのは、どういうことかと。その助かりには、心のそこから沸いてくる、喜びが、伴うておらなければならん。そういう助かりである、そういう助かりのおかげを、目指しての信心でなからなければならん。まあ分かりやすく言うなら・・、毎日、お酒を頂かなければ、やっていけんと言う人がある。もう、これだけはやめられんというほどに好きなタバコを飲む人がある。タバコをのむ人が、お酒をいただく人がです、例えて言うと、飲まなければ、飲まなければ、やっていけんと。飲まなたまらんというときには、助かりはないと思うですね。そういう、タバコなしにはできぬ、お酒なしには出来ぬ、という人がです、それが、酒もタバコも例えて言うなら、なくても済むというとき、私達の助かりがあると思うですね。
そうでしょうが、いつも、ここのこれから手が出るように、欲しい欲しい、タバコ一服のみたい、一服のみたい。ね、よくタバコのみが言います、タバコだけは、もう自分がなら人からでもその、もらえると言ったようなことを申しますね。いわゆるその、乞食根性です。( ? )1本ください、なるほどそれはまあ、タバコなら、ほんとに、なんでもないことでございますけれどもです、一事が万事にそうなんだ。お酒を飲まにゃやっていけん、それではですね、助からない。いわゆる、飲むために、働いておる。死ぬために、生きておる。ようなことにしかならないのですよ。ね、これは、酒とタバコと言うだけのことじゃないですから、どうぞそこんところをいただかにゃいけんのです。それが与えられなければ、助かったというのではない、というのではなくて、それを与えられなくても、平気であると。例えばタバコをのまない人、お酒を飲まない人、は、もうタバコの為に、苦労することはないのですからね。そうでしょうが。
私は人間の本との助かりというのはそうだと思う。その上にです、神様が、言わば、この、許されるとでも申しましょうか、恵まれるとでも申しましょうか。願わんでも頼まんでも、なら、お酒を下さる。そこに、なんとも言えん、ほろ酔いきげんと言うか、勿体ないなあと、有難いなあと。そこに、一服のタバコを下さる、なんとも言えん、その憩いのひと時。それが、私が言う、真実の助かりというのは、私どもは、求めておる、それを、求めんで澄むようになったとき、それでも神様はやっぱり、下さろうとする働きがあってです、なら、晩酌なら晩酌を、与えてくださる。とそのタバコを与えてくださると。そのときに、初めて、あー有難いもんだなと。いわゆるその、ほんとのその助かりに、いれてくださると言うか、与えてくださる、恵んでくださる、それを頂いたときに初めて、人間の助かりと同時に、有難いというものが伴った姿であるとこう思うのです。ね、ほんとなんて言うでしょうか、そこがわからにゃいけん。そこでそこが分かるために、神様は、あらゆる手段を持って、私どもの上に、望んで下さるのです。
真実の助かり、私どもは真実の助かりを求めて、それは、真実の助かりにはです、有難いことじゃな、勿体ないことじゃな、自分のようなのに一服させてくださって。自分のような者に、こういう、なんと言うか(ほうえい?)の、なんとも言えん、それこそ、春の様な( ? )心の中に与えてくださって、有難し、勿体なしという、おかげが頂かれる。そういう生活が信心生活。信心によって救われ助かっておる者すべてが、それを、どうぞお酒をください、どうぞタバコをくださいと、すがってすがってすがりぬいて、それを、与えられることが信心のように思っておる。
なるほど神様は、下さらんこともないのでございますけれども、それでは、真実の助かりではないのです。どうぞどうぞと願ったときだけでしょう、すがったときだけでしょう。また、喉から手が出るような、いわば、浅ましい姿にならなければならんのですから、まずその、一つのその乞食根性と言ったようなものがです、私どもの、中身から、信心の中身から、除かれて、おかげを頂いた姿に私どもがならしてもらわなければならんと。
鐘の割れるまで、太鼓は破れるほどに、叩かなければ、よい音色を出さんとこう。そこに様々な神様のその働きというものがです、場合によっては、それが痛いこと痒いこと。いわゆる、私どもが難儀と感じる難儀の姿によって、表れてくる。いわゆる、私どもの上に、叩いて叩いて、叩きぬいて下さるのです。それを、どうぞ叩かんでください、どうぞ叩かんでください、と言うようなです、信心ではなくて、叩かれながらです、自分の心の底からそういう、本との音色、はー、神様はほんとにこういうことをわからせてくださろうと、する為の、この、難儀であったというように、翻然として分からせてもらうということ。
叩かれながらもその手にすがり、(西の探検 ? )。これじゃいかんですね。叩かれながら、なんて言うですかね、その、(かいりゃく?)心とでも申しましょう。叩かれて叩かれる、この愛情、叩かれる、叩かれなければ、言うなら気持ちが、叩かれることによって気持がいいち言う。これなんかはもう一つの変態心理ですよね。つねられたい、叩かれたい、ひとりニヤニヤ笑っとるっち言うのがある。信心なそげなもんじゃないです。ところが、そういうようなことに陥っていく人が、ないじゃないですね、信心させていただく者の中に。自分の身を苦しめ、自分の心をさいなむ。それだけでも足らんから、さあ水を、断食を、火の行水の行と言ったような行を、しながらでも、そこからその、有難いというものをもし感じれる、感じると言うならば、私はそういうような、それは、一つの変態心理だと思うですね。
叩かれなければ、つねられなければ、その、感じない。と言うほどにです、もう鈍感になっておる、幸せに対するところの、言わば、目をふさいでおる。そんなもんじゃない。(その人?)が、心にあるから、信心とは、と言うて、まあ軽蔑する人たちもあることになってくるわけです。
叩かれながらもその手にすがり、(にしのたんけん・・・?)。と言うようなことではなくてです、叩かれるたんびに分かりながらです、ほんとに神様相すませんと、私が至りませんから、言うなら、私の心の中に実意丁寧神信心ができませんから、神様を、こういう、わずらわせる、なければならない。神様も苦しいけれども、私どもも苦しい。叩かれながら、そこに本当、本当(の音色というものは心の底から、でてくようなおかげを頂かせてもらうということ、信心とは。好きや好んで神様叩きよるとじゃない。ちょっとおかげを見せる。ちょっと調子が出てくると、もうそれに、増長する。言わば、調子に乗りすぎる。ちょっと楽になると、もう、楽なら楽の花を、咲かせるようなことを、( ? )ような、楽を求める。そういうことではおかげは頂かれん。
まあさっきの御理解で言うならです、酒とタバコを一緒に頂くようなもん。例えて言うならばです、お風呂ならお風呂に入らせていただく、もうそれだけでも極楽でしょうが。ね、それを、あんま呼んでから、あんまさせようと。と言うような、増長した心が人間の心の中にあるところに、いつまでたっても人間の助かりというものが、難しいことになってくるんですよ。もう普通の風呂じゃいかん。トルコ風呂にでも行ったごたるふうで、いわゆるトルコ嬢でも呼んでから、肩背中揉ませるようなことをする。ね、楽に楽を、求めるような心が人間の心の中にある限り、真実の助かりというものはないです。
皆さんの心の中にはどうでしょうか。ちょっとおかげを、頂きそめる、頂き始められると、もう次の、その、楽に楽をしようとする。ほんとにもうお金が、お金が足りん、お金が足りん。ここにこうお金がありさえすれば、という、そのお金が頂ける、それだけでも、ほんとに有難いことなんだけれども、もうその金で、さあ、いっちょおいしいのっと行くかと。さあ今日いっぱい飲むかと。言うようなことで、おかげのいただけれるはずがない。楽に楽を、いわゆる求める心があったらそうならん。私ども例えばお金が足りんならお金が足りん、ここに、お金をここに持っとることを許されておるということだけでも、有難い。とてもとても勿体のうして、温泉のだんじゃろか、お酒のだんじゃろか。こうして持っておるということだけでも、許されておるだけでも、有難いのであるからと、言う信心を分からせていただいて、そして、神様が先に、許されて、温泉を下さる。許されて、お酒を下さる。許されて一服。いわゆる、自分から求めて楽をするような心になるなというのはそうなんだ。
私どもは、私どもの上に、こうしておかげを頂いておりますとそれですから、いつもそれを、自分の心の中にかけておる。そんなことに( ? )。ですから、助かる、叩かれるたんびんにです、私どもの心の中から金輪際そういうような、楽が楽を求めているような心というものを自分の心から、取り除かせていただくです、性根が出来なければ、おかげは下さりません、神様は。
叩かれながら、そして、もうその後は( ? )ごたる程度の信心になっちゃつまらん。変態心理になっちゃつまらん。叩かれることによって分からせていただいた。神様は好きでこげん叩きなさるとじゃない。神様も苦しいんだ。叩かれながら、本とものが、心が、人間の本当の心、ほんとの音色っち言うのが出てくるおかげをいただかさせてもらう時にです、あー有難し勿体なしという信心。その、有難し勿体なしということがです、実意を持って丁寧信心をもってです、それが頂き続けられていくところに、お酒も、許されるであろう、タバコも許されるであろう。何万も何十万もするような、言うなら、着物も許されるであろう。どんなに山海の珍味であろうと言うようなものも許されるであろう。許される、頂かせてもらうという、私はおかげをいただかなければ、ほんとのことじゃあないけれども、少し調子が良くなると、もうそれを求めようとすると。これではいつまでたってもおかげ頂かんのです。そこで、お互いが、楽はせんぞという心になりなさいて。
ね、楽はどこまでもさせていただくもの。いわゆる、風呂に行っちゃならんじゃあない。按摩してもろちゃならんのじゃない。許されて、風呂も良かろう、按摩もよかろうということになる。それを、もう風呂をひとつ許されたおかげを頂くともう、心が横着になって、さあ按摩、按摩と言うようなことになってくるのである。そこに、恐ろしい落とし穴がある。
私ども助かりは、私どもがです、ホーンとにお酒が欲しい、ここに一本タバコが欲しいとと言う間は、それは、すがって願って頂かせていただいたからと言うて、心の助かりではないということ。神様の願い、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、そうじゃない。おかげでそれがいらんようになりました。それなしにはならん、なら、恋しいということがなくなりましした。というときに、真の助かりがあるんだと。それを、許されて今度は与えられるときにです、有難い勿体ないがあるのだ。神様との(・・・? )じゃないのです。あれがなからにゃやっていけん、あれがなからにゃおかげじゃないような思い方からです、それがなくても、おかげが頂けておられる、自分というものをです、ほんとに分からせてもらう。おかげを受けておるということをです、分からせてもらう、そういう、目当て、そういう、目指しをもっての、信心にならなければいけんのですよ。
神様は、破れるほどに割れるほどに皆さんの上に私は、そういう働きを、が、現れておられるのじゃないでしょうか。ね、なぜ叩かれるのか。ということも、私どもが、気付かずに、叩かれ続けたんでは、神様もお苦しみ、私どもも、いつまでも難儀が絶えないことになる。そこんところをほんとに、私どもが、よい、叩かれてよい音色が出る、太鼓のように鐘のように、よい音色を出させてもらうということがです、人間の真実の助かりに、または、有難い勿体ないという、生活につながることであると、私は確信いたします。
そこにです、何がなんと言うても一番欠けておるのは、私どもの信心の中身。実意丁寧神信心が欠けておるということです。そんなことで横着な、考え方じゃないか。そんなわがままな 、ごまかし半分の。そういうことで、おかげを頂いたにしましても、それはほんの、一時のおかげなんだ。ここんところの、改まりや、できなくして、おかげの頂けれるはずはない。と、叩かれながらほんとに、悟らせてもらって、おかげを頂いていきたい。
鐘は割れるほどに、太鼓は破れるほどに叩かなければ、よい音色が出らん。私どももそこにいい加減、その叩かれたらです、そこから、ほんとによい音色の出る信心を、させてもらわなければならんのですけれども、叩かれよるうちにそれがもう、慢性のごつなって・・・。いわゆる叩かれることによってそこに一つの、ね、いわゆるその、つねられたり叩かれたりしてから、良い気分になるような、ものに、もうほんとに、神様の願いとは全然反対なのに、ようなものが、できてくるようなことにでもなったら、それこそ、これは、信心はアヘンなりと言われる、のはそれなんです。それは、信心が、悪害を、及ぼすだけなんです。どうぞ、真の道、真の信心に、ね、真の道におりながら真の道を踏まんことと仰るが、その真の道を、分からせてもらう、真の道を踏ませていただいてです、そこんところ実意丁寧な神信心によって、私どもが、何にも、言うならばいらない生活。求める信心からです、求めず、自分の心の助かりが、感じられる信心。ですからやはり、そこんところは、修行していかなければできませんですね。例えば好きな人に酒を、酒をやめよ、タバコの好きな人にタバコをやめろと言うぐらいですから、ね、難しいです。けれどもそこんところを通りぬかせていただくときにです。私はほんとに、タバコのみの助かりがあり、酒飲みの助かりがあると思うんですよ。
だからその、今日私が申しあげるところの、酒やタバコというのじゃないですから、そこんところを皆さんが、を、わからにゃいけませんとですよ。ね、例えばもうお金、お金をお金をと思うてる人をです、言わば、そのお金をお金をという、お金をその、なしには、でけんという、その考え方からです、お金はない、なるほど、借金でも持ってる人は借金を、請求を受けることはです、苦しい。けれどもその、苦しいなら苦しいでです、そこから、いわばその、叩かれておるわけですから、よい音色を出させていただくところのおかげを頂かせてもらうときにです、神様のほんとのご神意が分かるということにもなるのですから・・・。そしてそれが、言うなら、もうタバコをのまんでも、言わば、平気になったと、お酒は頂かんでも、困るということがないと。そこに、私どもの助かりを見い出す。発見する。その上に、どうぞ一服と、どうぞ一杯と、いうふうに頂けれる。そこに、もうほんとに、私ぐらいの者に神様はこうまでしておかげを下さる、ということになってくる。
ところが、さあ一杯と言うと今度は、その中身もう一本もください、と言ったような、楽に楽を求めるような、私の心の中に性根がある間はです、ほんとにおかげは受けられないということを、思わせてもらいたいですね。どうぞ。